鶴川敏聡 ベルギー王国ブラッセル市 会社員
受講したきっかけ。昨年の正月、私は上通りを一人で歩いていました。ベルギーへ二十五年前にベルギー人妻の求めに応じて移住した私は、日本の友との交流も絶え、そのために移住した妻も四年前に去り、全くの孤独にありました。「何もかも失くしてしまった。」ーかつてたくさんの友とはしゃいで歩いた上通りの街を思い出しながら、こむらさきのラーメンを啜ってひとり寂しく新年を迎えました。するとどうでしょう、昨年二月にフェイスブックで上尾講師のサイトに突如として繋がります。「お久しゅうございます。じゅんな、今、どこでなんしよっとや!会いたかねえ〜(^-^)v」。実に三十三年ぶりの交信です。
三十三年前…当時私は熊本日日新聞社に勤めておりました。上尾講師は熱心にセミナーへの受講を薦めて来ました。当時の私は”自分の生き方は自分で見つけるべきだ”ーという固い信念のもとにセミナーの受講を断りました。中学・高校を通して無二の親友の誘いをぎりぎりまで考えて断ってしまいました。その後彼との交信は途絶えます。
熊日で熊本本社五年、東京支社五年勤務した後で、妻が突然ベルギーに帰りたいーと言い出しました。五歳と四歳の子供を抱え、ほとんど家に帰らない旦那との生活にノイローゼになっていました。朝日や日経ならいざ知らず、熊日に欧州支局はありません。ときは一九九〇年、バブルの絶頂期に私は東京支社で大手広告代理店や広告主の大手顧客と思う存分の新規企画を担当し、遣り甲斐を感じておりました。家庭を選ぶか、仕事を選ぶか?毎夜毎夜、ベランダでタバコを吹かしながら私は神様に問いました。「田舎新聞社の人間が、果たしてヨーロッパで暮らしていけるのか?」「仕事とカミさんとどっちが大事か?」ー考えに考えた挙句、私は妻と家庭のために欧州へ移住する決意を固めました。
幸いある商社の欧州プロジェクト要因の募集があり、採用していただけました。欧州に移住するにあたり、私は次のような決意をしました。家庭のために新聞社を辞めたのだから、もう夜の付き合いは止める。家庭第一に生活する。社会的な”成功”を考えるならば、私の決意はその正反対に位置したものでしょう。それでもいいと私は思いました。
幸い天使のような長女と長男を授かり、二人とも学校総代を務めて卒業し、自立しました。何の不満もない生活に突如異変が起こりました。「ベルギー人の生活を取り戻したい」ー二〇一一年、妻の突然の告白に私は返す言葉がありません。私も彼女のために通常行われる日本の交友関係を犠牲にしてきた過去を振り返れば、彼女にも同じような状況だったことは想像に難くありません。国際結婚ではお互いの本来得られるべき交友関係をある程度犠牲にせざるをえません。長女長男が自立したとき、彼女がまた自分のアイデンティティーを求める気持ちもわからないではありません。私は離婚の申し出に同意しました。しかし、私の潜在意識は猛烈に反発しました。体中二十数か所から血が吹き出しました。自分が考える以上に、私の潜在意識は妻と別れることに反応しました。理性で分かっても感情で抑えられないことがこの時初めてわかりました。
それから五年、やっと一人の生活にも慣れ、次の人生を考える時間ができました。これまで私は①欧州留学②国際結婚③欧州転職ーという難題に対応してきました。しかし、④離婚を経て、その後の展望が全く見えません。そんなとき、上尾講師との交流が復活しました。これは運命かもしれません。三十三年の歳月を越え、彼とはまたロックバンドの練習を再開しました。まるで昨日のことのようにお互いを罵倒しつつ練習することができます。なんとありがたいことでしょう
受講中に気付いたこと、感じたこと。今回の受講で最も印象的なことは、成功に年齢も性別も学歴も関係ないーということでした。私はこれまでの人生で数多く神様の好采配を受けてきました。「もう、いい。後はなすがままにー」と考えていたときに、上尾講師の再びの誘いを受けました。受講して感じたことは、これまで、個人的にそうではないか?ーと想像していたことが”原則”として語れていたことです。経験則で感じていたことを、理論的に落としこんでいただけたことで確固たる信念にできたことは大いなる違いだと思います。
終了しての想い。私は齢も齢で半ば諦めていました。六十近い男がもう何も叶えられることはないと思っていました。受講して最も感じたことは、”求める”ことでした。”求めよ、さらば与えられん。”まず求める心を持たねばなりません。そしてそれを信じて行動することです。
今後のビジョン。私は離婚を通して、自身の幸せが何に起因するかーということを痛感しました。人は自身より他者の喜びを以てより多くの幸せを感じます。子供や孫の喜びも大事ですが、ともに人生を紡ぐ伴侶を得たいと思っています。 |